相関図・キャスト

Soukannzu

イントロダクション

2024年5月。

雨が降りしきる国会前に、DVや虐待被害の当事者が集まっていた。

離婚後共同親権の導入に反対するために———

離婚後共同親権の導入を含む民法改正案に対し、多くのDV・虐待被害当事者やその支援者が懸念の声を上げ、反対の署名は24万筆も寄せられました。

しかし2024年5月17日、民法改正が可決、成立。

共同親権は「共同」という言葉が持つポジティブなイメージが先行し、偏った報道が多く散見され、DVや虐待の被害者たちが抱える不安の声はなきものとされています。

しかしこのまま黙っていては、弱い立場にある被害者や子どもの未来を守ることができません。

社会の無理解や無関心は、さらに被害者たちを追い詰めていきます。

本作品は日本で初めて、DV被害当事者が台本の段階から密に関わり、製作プロダクションとともに製作された作品です。
また、本プロジェクトは当事者・支援者の資金によって実現され、被害当事者達が物語の構成や細部に意見を寄せてその現実が真実味をもって描かれるよう反映されています。

この問題を一人でも多くの人に知ってほしい、そして一緒に考えてほしいという強い思いからこの映画は製作されました。

DVや虐待に苦しむ未来の被害者を減らし、個人の尊厳が守られる社会になるよう願いを込めて。

ストーリー

家庭内で起こる静かな暴力。

第三者に透明化される被害。

そして離婚後も続く支配。

それは、まるで“見えない鎖”のように親子を追い詰めていく。

果たしてこの鎖を断ち切る方法はあるのか。

離婚後共同親権導入後の未来をドラマで再現、そして実際に離婚後に起きている凄惨な事件、DV被害当事者の声、弁護士への取材から離婚後共同親権の問題点を読み解いていく。

自主上映

ちょっと待って共同親権ネットワークでは、離婚後共同親権の問題を広く社会に知ってもらうため、自主上映会を開催してくださる団体を募集しております。

DVDまたはブルーレイを1週間3万円で貸出いたします。詳しくは『五月の雨』自主上映会 主催者向けご案内をご確認のうえ、自主上映会を企画・開催していただける場合はこちらの「主催者用申し込みフォーム」にてお申し込みください。

コメント

大声で怒鳴るのでも、平手打ちが飛んでくるわけでもない。 この映画から、被害者をじわじわと追い詰め、恐怖から逃れられないように思わせるのは「見えない暴力」による「支配」であることを学ぶ。子どもが深い悩みを抱えたり、同居親を責めたりするならば、「共同親権」制度が親子関係をよくするどころか、同居親と子をDVのさらなる危機へと追い込むことになるのではないか。
多くの市民がこの映画を見て、話し合うことを切に願う。
戒能 民江
お茶の水女子大学名誉教授
『五月の雨』を見ながら、幾度も呼吸が苦しくなり、動悸がした。恐怖感への身体的な反応で ある。つまり私にもその反応を起こした記憶があり、それが蘇ったということだ。支配の怖さ は、体験した人にしか分からないのかも知れない。ほとんどの場合、身体的な暴力を伴っていな いので、単に解釈の問題として扱われる。だから私も誰にも相談したことがなかった。同時に女 性が陥りがちなのが、自分が悪い、だから自分がうまく収めればいい、という発想である。 映画の事例は専業主婦だ。そこで、夫による支配は金の問題と思われがちだ。「俺が稼いでい る」「食わしてやっている」というあれだ。しかし実は違う。私は男性に経済的に依存したこと がない。その生き方を選んできた。しかし依存されている場合であっても、結婚していなくと も、男女関係でなくとも、仕事の現場でも、男性は「威嚇」することがある。  動物でも人間でも理由はさまざまだ。上下関係や力関係の確認の場合もあれば、不安や焦りを 抱えている場合もある。問題は生き物の行動の型である「威嚇」が、なんと人間社会にまで持ち 込まれ、とりわけ男性にそれが許容されていることだ。威嚇は相手に恐怖を与える目的でなされ るが、結局は関わりの破綻や時には戦争に至る。威嚇は動物全般の行動だから、された方には生 き物としての身体反応が起こる。  人間としての自覚に至らずオスを生きてしまう人や、時にはそれを見習ってしまった女性もい る。彼らは自己利益の最大化を優先する。それがなかなか見えないのは、構造的差別を容認する 社会だからだ。その中での共同親権は、子どもの自己決定を妨げる。絶対に避けねばならない、と 『五月の雨』を見て、あらためて思った。  「親権」という言葉にも違和感がある。実際には義務も含んでいるわけだが、自己決定の権利 をもっているのは常に子供であるべきだ。
「親権」ではなく「子権」あるいは「養育義務」としたなら、権利が欲しい人たちを遠ざけられるかも知れない。
田中 優子
法政大学名誉教授 元総長
毒親育ちの私は“親子の絆”という呪いに苦しみました。 うちのように両親ともに毒親の家庭もあります。 あの二人にまともな対話なんてできるわけなかった。 話し合いのできない夫婦はいるし、子どもを傷つける親もいます。 「父母が話し合って決めればいい」と言う人は現実を全然わかってません。 それを強制される社会だったら、私は両親の泥仕合に巻き込まれ、さらに苦しんだことでしょう。 この映画を観ながら、中学生の天音くんに共感しました。中学時代の自分を思い出して涙が出ました。 あの頃の私は友達に支えられて生きていました。 そのうちの一人、私に参考書をくれて勉強を教えてくれた優しい女友達がいました。 彼女は「社会の役に立つ仕事がしたい」と言って、一生懸命勉強して、夢だった職業につきました。 けれども結婚後に夫がモラハラDV夫に豹変して、夫のDVから逃れるために何度も引っ越しして、ワンオペで子育てしながら裁判を戦い、キャリアも断念せざるを得なくなりました。 「夫と子どもを2人きりで会わせることはできない、夫が子どもを殺すんじゃないかと怖くて」と彼女は怯えていました。 中学生になった子どもが「面会交流の回数を減らしてほしい」と父親に言うと「また調停を起こすぞ、覚悟しとけよ」と脅されたそうです。 「離婚後共同親権が導入されるのが怖い」と沈んだ顔をする彼女を見て、腹の底からムカつきました。 なぜ彼女がこんなにも苦しまなければいけないのか、こんなにも奪われなければならないのか? 中学生の頃、女子校に通う私たちは「男の子とデートというものをしてみたい」なんて言いながら、無邪気に笑っていました。 あの彼女の笑顔を返してほしい。 離婚後共同親権って、いったい誰のためのものなんですか?
アルテイシア
作家
今日、離婚後共同親権の問題を描いた『五月の雨』という映画の試写会に行ってきました! DVの再現がものすごい解像度だから、実際に離婚後共同親権の問題点を解説する弁護士さんの話に説得力が増しています。 主演の俳優さん、なんと『虎に翼』でもDV被害者を演じていた、安川まりさん!上映後の挨拶で「完成した映画を見て、尊敬する師の言葉を思い出しました —俳優の仕事は声を上げられない生活者の代弁者である— と」というようなことを話しながら泣いておられて、共演者の調停員役の女性の俳優さんも一緒に泣いてらして、私も号泣でした。 民法改正で離婚後共同親権が審議入りしたとき、自分のできる範囲でいろんなところに問題を伝え働きかけたりしたのですが、DVへの理解や想像力がないと話が全然伝わらないなと実感していたので、こうして映画になって、本当に本当によかったです。 映画ではDV被害者で当事者の方が、加害者が支援する人たちにも嫌がらせをして支援者が離れてしまうのではないかと心配されていました。この問題は、女性差別、男女不平等が縮図になったようなものです。 エンドロールで映画のクラファンを支援した人たちの名前の一部が流れた中に、壮絶なDVを受けながらも戦い離婚した友人の、旧姓での名前がありました。いま一度、女性たちで手を取り合って支え合いたいと、この映画を見て思いました。
なほ
東京ジェンダーしゃべり場
共同親権を作ってしまった政治家たちは、女性を産む機械と見なしていると認めた方がいい。DVがあるかどうかは結婚してみなければわからないのに、結婚し、出産したら、暴力から「逃げさせない」社会。命がかかっているのに、裁判所は「DVを主張するな」と言い、法務大臣は「心をこめて言えば伝わる」と精神論を語る―――まるで、女性が「財産」だった明治民法の世界に戻ったようだ。それが共同親権の真の目的なのだと思う。でもわたしたちは、機械ではない。
池田鮎美
性暴力被害者、元ライター
■この映画は、「すでに起こった未来」。そして、「変えられる未来」。 「五月の雨」は、離婚後共同親権導入後の未来予想だが、決して単なる想像でも妄想でもない。 離婚後共同親権を導入した世界各国で、また、「面会交流原則実施」運用が浸透していた日本で、実際に起こった事実がベースにあり、いわば「すでに起こった未来」だ。 ―父母双方の関わりを無前提に「善きもの」とするイデオロギーは、DV・虐待被害者を沈黙させ、加害者にさらなる力を与える。 強いられる共同親権・共同養育は、養育環境を悪化させ、子どもの希望と未来はふさがれる…。 2024年5月、77年ぶりの家族法改正で、日本は各国の失敗に学ばず、周回遅れで自ら崖へ転落する道へ向かう愚かな選択をした。 一方で、一つ一つの小さな声がつながり、多くの人の共感を得て、「ちょっと待って共同親権」のムーブメントは、附帯決議や国会答弁など貴重な歯止めを獲得することができた。 2026年、改正民法施行。「五月の雨」のようなディストピアとなるか否かは、これからの取り組みと運用にかかっている。 私たちは黙らない。 未来は必ず変えられる。
ありしん
「共同親権」問題情報センター
殴っても蹴ってもいないーそれでも、これは確実に「暴力」であり、人の心を恐怖させる支配だということが、再現 DV ドラマでよく伝わる。 改正民法により導入される離婚後同親権制度については、メディア報道でもとても誤解が多かった。この映画を観れば、DV虐待被害者が、加害者から今まで以上に逃げづらくなることがわかるはずだ。正しく知るための貴重なツールとして、また今後どうすべきか考えるためにも、映画上映会が各地で開催されることを期待している。
太田啓子
弁護士
人は小さな翼の芽をもって生まれてくる。親や周囲とのかかわりは、その翼を伸ばすようにもたわめるようにも作用する。翼は夢を運び、男の子の夢は応援されるが、女の子の夢はくさされる。思春期ともなれば、女の子の翼は、男子に気に入られるようにと萎えさせられることが少なくない。それをメディア・政治・一部の宗教が「女らしい」ともてはやす例は、洋の東西を問わない。 映画では主人公の女性に、ようやく離婚が成立し、翼の再生の可能性も出てくる。しかしその翼には、共同親権という鎖が重く絡みついていた。夫は妻にたいして、こと細かに服装や髪形を指図し、外出を制限し、個人名義の預金までも管理してきた。離婚後も子どもにかんする決定権を武器に、元妻にたいする連絡や要求が絶えない。 それは子どもへの愛情でも、元妻への執着ですらない。彼女が全身全霊で自分の意を迎え、仕え尽くす女に仕立てるように、翼を折りもぎとってきた。離婚後もことあるごとに怯えさせるのは、自分自身がじつは空っぽであることを見ないためなのだろう。 そんなことなどを、深く深く考えさせてくれる映画である。
大沢真理
東京大学名誉教授
「別れても父は父」という言葉の下で、「新しい家族の形」と受け止められがちな「共同親権」。ただ、そこにはDVの夫が子どもの進路選択などをめぐって別れた母子に指示を続けるなど、離婚後の妻たちの拘束継続に制度が利用されかねない現実がある。この映画は、そうした見えない暴力を痛切に浮かび上がらせる。理由があるから離婚するのに離婚しても逃げられない、というホラーの世界。まさかそんな、と思った方にはとりわけ必見の映画だ。
竹信三恵子
ジャーナリスト
司法関係者などがDVを理解していないことが、被害者と子どもをいかに 追い込んでしまうか、その怖ろしさがリアリティを持って胸に迫ってきます。 日本に次の概念が広まることが必要だとつくづく思いました。 アメリカの法務省のサイトに掲載されていたDVの定義をアウェアが訳したものです。 「DVとは、年齢や性、結婚している、同居している、同棲している、婚約している、交際しているなど、その形態に関わりなく、親密な関係の相手に対して力と権力を使って優位に立ち、支配する関係をつくり、それを維持するために繰り返し行うあらゆる威圧的行為である」 社会がDVに取り組んだ歴史が50年以上に及ぶ米国では、1984年にネバタ州で司法関係者がDV研修を受けるために、同州のすべての裁判所が1日閉じられたそうです。 DVはそのくらい重要な社会問題だと位置付けて社会全体で取り組まなければならないのに、日本ではいまだにとても軽く扱われています。 また、映画では、DVが子どもに与える怖ろしい影響が理解されていないことも重大な問題であることが浮き彫りになっています。DVと子どもは関係がないと司法関係者が言う場面がありますが、そういう人はあまりにも想像力がなさすぎます。 DVする親はいい親ではありえません。なぜならDVは子どもへの虐待だからです。 「受動喫煙」という言葉があり、受動喫煙禁止とか防止という言葉もあります。 例えば、親が家の中や車の中でたばこを吸うと、子どもが煙を吸うことで肺が真っ黒になり健康被害をもたらすので、それを禁止したり防止するための法律や条例を国や自治体が定めています。 私は、受動喫煙禁止という言葉を聞いたとき、「受動虐待禁止」もぜひしてほしいと思い、「DVは受動虐待」と言うになりました。DVが起こっている家で子どもを育てることは、DVという毒で汚染された真っ黒な空気を子どもに毎日吸わせるようなものです。その結果、子どもは苦しむだけでなく、まちがったこと、DVにつながる危険なことを心身ともに学んで身に着けてしまう危険があります。 そして、成長して、親密な関係をもったとき、デートDVやDVをしてしまいがちです。実はアウェアの加害者プログラムの参加者の8割ぐらいがDV家庭で育っています。 DV加害者プログラムは、被害者支援が目的で行なわれなければなりません。 この映画を加害者たちも観るべきだと思いました。
代表 山口のり子
一般社団法人アウェア
何かに怯えて暮らすということはどれほど心身を削られていくのだろう。大きな物音や大声、不機嫌な態度、家事育児の放棄・・この映画は直接ではない「見えない暴力」によるDVの深刻さとそれが理解されない社会、司法を描くと同時に、「共同親権」の問題を浮き彫りにしている。 会わなくとも、暮らさなくとも、心身を削られた相手とコンタクトを取り続けなければならないストレスと恐怖。それが弁護士にも子どもにも理解してもらえない絶望感。離婚をして新たな人生を歩み始めたはずなのに、その絶望感は繰り返し襲ってくる。その苦しみや悔しさをなぜ女性だけが背負わなくてはならないのか。
浜田敬子
ジャーナリスト
傷は残らない、血も流れない、言葉も荒げない。そんな暴力が存在することをこの映画は教えてくれます。そしてそのような暴力は、いまだ世の中では暴力とみなされていないということを、司法が守ってくれないということを、残酷なほどに教えてくれます。加害者は自らの振るう暴力に、あるいはその影響に無自覚であるがゆえに、被害者が離れていくことに傷つき、憎み、執拗に支配の鎖を手放しません。とりわけ胸が痛んだのは、子どもと元夫との板挟みの中で、子どもにまで責められてしまう強烈な苦しみ、悲しみ、無力感でした。その姿をあまりにも生々しく描く本作は、暴力やDVの認識・対策が不十分な社会で、共同親権を導入する恐ろしさを伝えています。
中川瑛
モラハラ・DV加害者自助団体GADHA代表 
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